夕凪の街・桜の国

日本滞在中に読んだ本を総括しようと思ったら、何を熱くなったのか最初の漫画一冊で力尽きてしまった・・・。いつもの悪い癖。残りの書評を書く日は来るのだろうか。


ともあれ、書いちゃったものは仕方ない。この『夕凪の街・桜の国』、さんざ話題になってすでに映画化もされているようなので、激しく今さらの感もあるが。しかし、これ映画にするのは難しいんじゃないかな。漫画としてかなり緻密に作り込まれていて、繰り返し読むことで全ての仕掛けがわかるようになっているので、一回観てわかるような映画に仕上げると表層的なストーリーだけ残って魅力が半減してしまいそうな予感。観ずに断じるのもなんだが。
内容については、amazonやブログのレビューを見ると、案の定というか、「原爆の恐ろしさ」「平和の尊さ」やらのオンパレード。一方で評価が厳しければ厳しいで「単なる反戦漫画」「平和資料館を見に行けばすむ話」みたいなのばっか。うーん、そういうことじゃないだろう?自分の見るところ、この作品の真価は別にある。もし「夕凪の街」だけだったら、ありがちな反戦漫画、と括られても仕方のない面もあるが、なぜ「桜の国」の方が分量が多いのか、また「桜の国」という意味深な(あるいは「際どい」と言ってもよい)タイトルが付けられているのか、に思いが至っていない読者が多いと思われる。ついでに言えば、「街」から「国」であるので、「夕凪」が広島内でほぼ完結している物語であるのに対し、「桜の国」は意図的に「国」を問うてることにも注意が必要。
さて、この漫画はテーマはあくまでも「戦後」である。しかし、戦後がテーマでありながら、この漫画の主人公達にとって戦争や原爆は、歴史的イベントを「知っているか」「どう解釈するか」という次元の問題ではなく、今、そこにある「自分自身にとっての」アクチュアルな問題なのだということがポイントなのである。我々の世代に至るまで戦争が依然としてアクチュアルな問題だという点では例えば戦犯の子孫とか、残留孤児とかとも共通であろうが、政治的に解釈されるのを避けて「アクチュアルな問題である」こと自体に焦点を当てられるという意味では「被爆二世」はほとんど唯一の、特権的なテーマといえる。
もちろん、「今でも苦しんでいる人達がいる」というところから「反戦」「反原爆」というテーマを見出してもそれは構わないし決して間違いではないと思うが、むしろ広島に直接縁のない読者が受け止め考えるべき問題は、我々のほとんどは利根東子(とその家族)であり、戦後の華やかで力強い復興と平和を享受しながら、自分の隣に住んでいる石川一家について何も知らない(し恐らくは理解することもできない)という現実である。自分が東子にしかなり得ないということを踏まえて、一見前向きな七波に「会いたくなかった」「わたしが東子ちゃんの町で出会ったすべてを忘れたいものと決めつけていた」と言われると、自分の戦後観(断じて戦争観ではない)が揺らぐ。ここに、この作品の持つ独自の強い力がある。
そうした細かいが極めて重要な心理描写を括弧に入れて、いきなり「げんばくはおそろしいとおもいました。せんそうはいけないとおもいました」というところへ飛んでしまうのではこの作品を読んだ意味がないと思う。実際問題、それこそ平和資料館でも見に行けばいいこった。
関連するもう一つのテーマは、「戦争の記憶と忘却」。これは、「夕凪の街」で「わたしが忘れてしまえばすむことだった」と繰り返し皆実がつぶやくシーンから、「夕凪の街」では顔も出てこない(もちろん意図的な演出)旭が、50年経って「桜の国」では何をしようとしているのか、という話へとつながる。もちろん作者は「忘れないこと」を前向きにとらえて描写しているのであるが、被爆者差別ということも含めて最終的には「忘れられる」ことによってしか苦悩が終わらない現実もあろう。七波の「両親の記憶」でひとしきり感動した後、最後の最後のページで旭の告白を聞いて、あなたが七波なら(自分は東子にしかなれない、とか強調しておいて何だが)両親のさらに向こうにある「皆実の記憶」まで引き継いでいけますか?そういう話である。穏やかな画風とは裏腹に、どっちのテーマも複雑で相当に重たい。評価するにせよしないにせよ、単なる反戦漫画に堕としては作者も登場人物も可哀相。
しかし、ホテルの部屋番号から母の死を回想したり(これは映画にしても使いやすいな)、2004年になっても足踏みミシンが部屋に置いてあったりと、尋常ならざる演出の細かさである。不要なコマや台詞が恐らく一つもないので、真剣に読むと相当疲れる。水木しげるの戦記もの等と並んで、日本の漫画史に残る「戦争体験もの」の傑作であることは間違いない。