2幼児放置死事件について思うこと(前編)

非常に不愉快な事件である。言うまでもない。
なんてひどい。どうしてこんなことができるのか。育児しないならどうして産んだ。家族や親戚は、周りは、近所はどうして気付かなかった。児童相談所は何をしていた。
かように不愉快な事件に人々は心を痛め、様々な反応を広く鋭く喚起する。自然なことだ。じじつ、自分も不愉快さのあまりこうしたエントリを思わず書き始めてしまったわけだ。
しかし、亡くなった子供たちの悲惨さに心を痛めつつも、こうした「お約束」の反応に食傷気味になっていることもまた、書き始めたもう一つの理由だ。
だって、「ひどい」とか「鬼母」とか言ったってしょうがないのである。母親がホストクラブ通いをしながら子供を放置していたことが世間の怒りに拍車をかけているようであるが、全くもって非建設的で意味がない。そもそも、「ホストクラブの方が育児より楽しい」と思うことがそんなに異常だろうか?世の中には育児以外にも楽しいことはたくさんあるのが現実であり(そして一般論としてはそれはむしろ幸せな現実であり)、それが少子化の理由の一つなんじゃないのか?
もちろん、育児から得られる、そして恐らくは育児からしか得られない、かけがえのない歓びというものは間違いなく、ある。むしろ、そういう歓びを感じるように我々の多くが「できている」からこそ、現在に至るまで我々は子孫をつないでこられたのであろう。しかし、その感じ方は人それぞれであろうし、育児が「無条件に」「常に」楽しいものかというと残念ながら私にはそうは思われない。育児から逃げたい、なんて思ったことがない親がいるのだろうか?妻の何分の一しか育児をしていない私でも、とても「ない」とは言えない。無論、ほめられたことではないし、当然だが実行したこともない。しかし、子供を愛していてもなお、育児から逃げたいと「思った」ことくらいはほとんどの親にあるのではないだろうか?
要は、「子供を放置したらかわいそうだ」とか「それで何かあったら取り返しがつかない」とか思うから思いとどまるのであって、単純に目の前の選択肢として比べたときに「育児」よりも「ホストクラブ」の方が楽しいと思う人間なんていくらでもいるだろう、という話なのである。自分(だけ)の効用を最大化する合理的個人であれば、特に割引率が高ければホストクラブや海に行く方を選ぶのがむしろ自然というものなのではないかとすら思う。
無論、「普通」(あえてこの言葉を使うならば)はホストクラブの方が楽しくても、かわいそうだ、とか何かあったらむしろその後が大変、というようなことを考えて結局放置死までは至らないわけで、この母親がどうしてそういう「多くの人は持っている」母性を失ったのか、またそこまで極端に目先の効用を優先するほど割引率が高い選好を持っているのか、この辺りをよく考え検証しなければならない。なぜ、子供達を死に至るまで「放置」しなければならなかったのか。
しかし、そういう不愉快だが冷静な作業を抜きに単に親を糾弾しても何の解決にもならない。
子供は親のものではなく、当たり前だが死んだ子供達はこんな仕打ちを受けるいわれは全くなかった。しかし一方で、子供が親のものでないのならば、なぜ親は自分の時間がほしい、と思ってはいけないのか?なぜ子供のことに親が責任を負わなければならないのか?
そんな風に思う/感じる人間はそもそも子供を産むべきでない、というのも一つの見識だとは思う。しかしそのように社会が命じることで出産をやめるのは、本当に育児放棄や虐待をする親だけではあるまい。
子育てを放棄すればネグレクトだという。自分で抱え込んで鬱自殺をすれば*1残された子供がかわいそうだという。
じゃあ、産まない方が楽ですねという話になる。実際、子供を持つ持たない、何人持つかということは、どだい当事者以外が外から強制できるような話ではない。
しかし、それだと国がとてももちませんね、というのが我々が今いる地点のはずである。ホストクラブ好きの風俗嬢にも、職場復帰したい局アナにもできるだけ子供を産んで頂きたい。すでにそういう状況なのではないのか?子を選り好みする以前に、親を選り好みする余裕が今の日本にあるのだろうか?
だとすれば、どれだけ育児の負担と責任から親を解放してやれるか、というのが少子化対策の肝であるはずだ。それなのに、ああそれなのに!!何か事件があれば親を責めるような言説ばかり出てくるというのは一体どういうことなのだろうか。そんなにみんな少子化を奨励して日本を滅ぼしたいのだろうか?
(この項続く)

*1:育児ノイローゼで自殺するなんてのは、究極の育児放棄ではないか