2幼児放置死事件について思うこと(後編)

前編より続く
さて、この事件が示しているがもう一つある。
それは、「大変遺憾ながら子供は放っておくと死ぬ」ということである。「放っておくとDQNになる」くらいだと価値観の問題として片付けようと思えば片付けられるのだが、非常に残念なことに子供というのは放っておくと死んでしまう。すなわち、「子供は放っておいても育つ」、というのは全くの嘘である。こういう厳然たる事実を如実に示した事件でもある。
こういう言い方は極論だ、と思うかもしれない。さよう、いかにも極論だ。
しかし、こういう話はあまりにもグレーゾーンが大きすぎて議論のしようがないのである。
だって、子供を置いてホストクラブに行くのがダメなら、「放っておく」って何だ?
件の母親は「食事をさせたり風呂に入れたりするのが面倒になった」と供述しているそうで、それを知って私ははたと膝を打った。
習い事をさせる、お受験をさせる、その他細々と子供の世話をする。
恐らく、「放っておく」というのは、そういうことに自分の生活や人生を犠牲にしてまで時間や費用をかけすぎるべきではない。そんなことしなくても往々にして子供は育っていくものだ。そういう意図があるのだろう。それはその通りだろう。そこには賛成だ。
しかし、実は子育てにおいてはそういうのは最初からマージナルな部分であり、その結果、どれほどの自由な時間が親にもたらされるのかというと、そんなに大したことはない。つまり、食事をさせる、とか、風呂に入れる、とか、通常は「放っておく」の範疇に入らない、最低限の部分が子育てにおける負担の大部分を占めているというのが現実である。たとえフルタイムの保育園に入れたって、送り迎えに行かなきゃならんし、帰ってきてから風呂にも入れれば寝かしつけも必要だ。
子供がおもちゃを散らかしていたらどうするのか?
片付けるという行為を自発的に覚えるまで散らかすままにしておくのか?私は決して几帳面な方ではないが、子供が自分で片付けるようになる、少なくとも6年とかそれくらいの間そんな家に住むのはイヤだ。じゃあ、親が片付けるのか、あるいは片付けるということを教えるのか。いずれにせよ手間がかかる。放っておく、というのには遠い。
子供が手づかみで食べていたらどうするのか?
子供が小学校にでも行って恥ずかしいから自分で箸を練習しようと思うようになるまで手で食べさせておくのか?それはそれで一つの方針だとして、その汚れた手でテーブルや壁を汚したらどうするのか?拭くのか、叱るのか、それすらも汚れたまま放置する(!)のか?
ことほどさように、子育ては、はっきり言って手間と時間のかかる面倒なものであり、現実には「放っておく」というわけにはいかないのである。
しかし、と人は言うかもしれない。かつては子だくさんの家庭も多くあり、しかも親がべったりと子育てをしていたわけではなかったではないか。それでも子供は育ってきたではないか。やはり今の親は不必要に子育てに時間を割いているのではないか、と。
私はそこの因果関係は逆だと思う。かつては親が今ほど子育てに時間と費用をかけていなかったのだとしたら、それは他の家族や親戚やご近所等々が実質的に子育ての一部を負担していたからである。核家族化が進み、共同体の解体が進み、そのようなインフォーマルな支援を失った結果、子育ての負担は親の肩に、日本の場合は事実上母親のみにのし掛かるようになった。
結果として母親は子育てへの専従を余儀なくされる。子育てにも「規模の経済」は存在するから、子供が二人になったからといって子育ての負担が2倍になるわけではないが、それでも外部のサポートがなければ専業主婦の家庭であっても全体として子供の人数は減るだろう。女性の社会進出が進み働く女性が増えればなおのこと、子供を複数産めばそれだけ外で仕事ができない時期が増えるから子供の数が減るのは言うまでもない。加えて、サポートが減って子育てのあれこれを自分(だけ)で判断するようになると、いきおい、それが自分の生活の中心となる。どうせ他のことが思うようにできないなら、せめて子育て「だけ」は自分の思うように、子供にはできるだけのことをしてやりたいと思うようになる。すると、数少ない子供のためにあれやこれやのマージナルなことにまで時間や費用を割くようになる。しかし、これはあくまでも「結果」であって、本来は子育てにとってマージナルな余分なことの「せい」で彼女らの生活が圧迫されている度合いというのは実は大したことはないのだ。
結局、子育てに費やされる資源の合計というのは実は概ね決まっていて、最近になって急に変わったというような事実はなく、親がどの程度育児をするべきか、どの程度の負担があるか、というのは必要な資源の「量」の問題ではなく、「分配」の問題に帰着する。よって、「子供は本当は放っておけば育つんだから、子育てに時間はかけすぎずに働きに出たり、もっと子供を産んだりするべきだ」というのはこうした因果関係を無視した無責任な考え方である。

何が言いたいのかというと、「少子化を改善するためには親が育児から解放される必要があるが、『誰かは』子育てをしないと子供は育たない」という単純なことである。
さて、ではどうすれば良いのか。
「絆の回復」とか呑気なことを言っている公共放送もあるようだが、今更、イエ制度とかご近所なんていうカビの生えた物をゴミ箱から拾ってきたって人間は幸せにはなれない。そもそも、そんなもの拾ってきたってどのみちもう使い物にはならないだろう。
現実には、働く女性の多くは子育てを親(つまり子供にとっては祖父母)に依存している。もちろん、それ自体がダメということは全くなく、得られる支援は自由に使えばよい。しかし、そういう親がいない人間はどうするのか(そもそも、祖父母の方だって孫育てができるほど元気であればあるほど、世の中に他にまだまだ楽しいことがあるにも関わらず、孫育てをさせられる謂われはない)。より一般的に、そういうインフォーマルな支援に依存すると、必ずそれを受けられない人間――例えば離婚して、そもそも自分の親も片親で、風俗で働いている今回のDQN女性がまさにそれだ――が出てきて同じような悲劇が繰り返される。


ネグレクトの話からスタートして少子化全体の背景に飛んだのには、理由がある。
この子供達はいかようにして救われるべきだったのか?この問いは児相が早く立ち入れていれば、というような技術的な話ではなくて、「我々の社会はこの少子化の中でどうやって子供を産み、育てていくつもりなのか」というもっと大きな問いにつながっているからだ。
「いや、そんなデカい話をする必要はない。こんな親はそもそも子供を産むべきではなかった」という反論もあるだろう。しかし、結果的にここまでする親はごく少数であるにせよ、そういうポテンシャルがある親というのはいくらでもいる、何も異常なことではない、というのが前編での私の主張であり、そういう親に子供を産むなというのなら、今よりもっと少子化になって日本なんていう国は早晩なくなりますがよろしいでしょうか?というのが私の反問だった。
そして、大きな状況として、子育ての負担が昔よりも親の肩にかかるようになっているにも関わらず、「子育てを放棄する」というオプションが現実にあまり用意されていないことがこの事件と少子化一般の共通の背景としてあるのではないか、というのがこの後編にとつながる私の主張だ。


結論。もう、子育てなんか放棄してもいいでしょう。親が子育てを放棄してはいけない、などと命じるから今回のような悲劇が起き、少子化も進む。自立した個人が労働し、社会生活を全うしながら十分な数の子供も産んでもらうためには、子供は国が(「国」という言い方に差し障りがあれば、「社会の負担で」)育てるしかない。

報道によると、この母親もピザの宅配などを使っていたようだから、ピザ宅配の番号を調べて電話して注文するくらいの能力はあったわけだ。そこで、「育児放棄ダイヤル」のようなものを設置し、「育児放棄したいんですけど」という電話を受けたら、「はい、30分以内にお子様を引き取りにうかがいます。30分を過ぎたら地域振興券500円分差し上げます」といって施設に引き取るようにすればいい。
もちろん、子供を引き取る施設、里子を育てるシステムというのは、今だってないわけではない。しかし、多くは虐待を受けた子供が主な対象であったり、「できるだけ親が育てるべき」という建前で経済的困窮等の明確な事情がない限りなかなか引き取らない。スティグマもあるし、規模も全く足りない。
これに関連して、報道では「子供を見て外からわかる虐待よりも、わかりにくいネグレクトの方が対処が難しい」という見解をよく目にするが、ここにこそ私は矛盾を見出す。親が周囲や児総の意向に反して子供を自分の手許に置こうとし、かつ虐待を続けるならば子供を保護するために公権力の介入が必要となるわけだから、結構な手間とコストになる。しかし、「育児を放棄したい」という親がいたならば、放棄させればいいだけの話ではないか。放棄する方法がわからない、あるいは手間がかかるから放置死のような痛ましいことが起きるわけだから、簡単に放棄できるようにすればいいのである。この母親だって、積極的に子供を殺そうという意志があったというよりも、「放棄」の手頃な他のオプションがなかったからこそ非常に極端な形での「放棄」に至ったのだ。
「子供を産んでくれさえしたら、後は誰かが育てます。困ったらこのフリーダイヤルにすぐご連絡下さい」というシステムにしないと少子化なんか解消しない。「産む機械」発言というのがかつてあったが、そういう言葉を直截に使うことへの賛否はともかくも、政策自体はとにかく予算を積み上げて出産可能な女性に「機械」になってもらうのを奨励するような対策を打つ以外ないのである。
子供手当てや高速無料化なんかする前に、こういうことに少なくとも年間数兆の予算を投入するべきである。


長々とゴタクを述べたが、私の主張は単純だ。
子育てをしたい親は、すればいい。上記のようなシステムが完備されたとしても、自分自身の生活には(税率が上がること以外)さしたる影響はあるまい。私は子育てが大変であっても、自分で育てることに意義を見出しているし、できるだけ子供達と一緒に過ごしたい(今は不幸なことにそれがなかなかできない)。妻は間違いなく私以上に自分が育てるという以外のオプションに関心はないだろう(実際には大変幸せなことに、妻の両親には非常にお世話になっているけれども)。しかし、それはあくまでも選択肢の一つであり、他人にそれを強制しようとは思わない。風俗店で働きながらホストクラブに通いたい親は、子供を産んだらその時点で親としての責任はお終いで、あとは好きなようにすればいいじゃないか。財政の状況を考えると、現実にはすでに手遅れかもしれない。しかし、少なくとも子育ての放棄が「悪」と糾弾される限り少子化は解消しないのではないか。それが私の精一杯の問題提起だ。