ボストン響コンサート
クラシック好きのbroadmindは、こちらに来て早速Boston Symphony Orchestraの年間会員に登録した。年間会員といっても、完全に好きなときに好きなようにいけるわけではないのだが、土曜日のコンサート6回分がパックになったもの。
この件、ウィーンのムジークフェラインザールを模したホールとか、我々のような留学生/旅行者の東洋人を除くとほとんど、いや完全に白人しかいない上にこいつらがヨーロッパでの同種のコンサート以上に着飾っていて(ただの定期演奏会だよ?)、何でもすぐ大拍手してスタンディングオベーションをしたがるという、演奏者に対する甘さにかけては悪名高い日本人をもあるかに凌ぐ様子等々、周りの連中のアホでマヌケなアメリカ白人っぷりについて書きたいことは色々とあるのだが今日は忙しいので控え目に。
先月の初回はシベリウスのヴァイオリン協奏曲とショスタコヴィッチの交響曲第8番という組み合わせ。「左利きのためオーケストラの配置が通常と逆」「お歳を召してそろそろヤヴァイので杖をついて登場、指揮は椅子に座って」という二つの意味で珍しい指揮風景を見ることができた、フィンランドの大物ベルィルント指揮。
ショスタコの8番なんて日本では滅多に演奏されないそうで、broadmindは正直初めて聴いたと思うけど、これはなぜ演奏されないって、ちょっと日本のオケには無理。失礼ながら。オーディオで聴いても、N響の生で聴いても、音が濁っているというか、単にうるさいという以上に響きが汚い感じがしてあまり好きでなかったというのが従来の自分にとってのショスタコの印象だったが、これはオーディオの限界、またはN響といえども(失礼ながら)日本のオケの金管が弱いからであって、ショスタコのせいにするのは自分の認識不足であったことを今回思い知らされた。音響の良いホールで、完璧な金管で聴くと、ショスタコの大音量の不協和音は少なくとも「濁って」いたり「汚か」ったりはしない。オケの悲痛な叫びが一つの塊となって自分に襲いかかってきた瞬間、「これがショスタコヴィッチというものか」と認識を新たにし、引き続きうめくような弱音部に至って、「これをお茶の間(死語)で再現するのは、ちょっとやそっとのオーディオ機器では不可能」と唸って終了。
でも、ショスタコヴィッチ再発見というのは衝撃といえば衝撃だったけど、「好きか」と言われると、上記の通り「良いホールで超一流オケが弾く」ならまた聴きたいが、オーディオでこの満足感を再現しようとすると、またIBででも働かない限り破産しちゃうくらいカネをかけないと不可能と思われるので、多分自分から進んでCDを買うことはないと思う。
予想通り、結局12日の二回目の演奏会に入る前に長くなりすぎたので続きはまた今度(多分誰も読んではいないと思うけど)。