伊藤勝吉

ブエナビスタの驚異的な末脚が炸裂した桜花賞。同馬の強さと同時に鞍上安藤勝己の最年長クラシック制覇(49歳16日)も話題になっているようだが、従来の最年長記録を持っていたのは伊藤勝吉元騎手(48歳9ヶ月23日)だそうである。戦前の記録(1940年菊花賞)で、伊藤はかつてはウラジオストクでも乗っていたことがあるというから時代を感じさせる。最年長制覇は騎手としての記録だが、伊藤は名調教師としても知られている。1200勝調教師でグランドマーチススーパークリークを育てた伊藤修司の父親であり、自身も高齢まで騎手として活躍しながらその後調教師として666勝をあげた(但し調教師兼任の時期あり)。息子の伊藤修司ですら自分自身は彼のキャリアの本当に最後の方しかリアルタイムでは知らないが、パリスナポレオンなどが印象に残っている。
さて、伊藤勝吉と聞いて自分が真っ先に思い出すのは最年長記録の菊花賞から9年後に日本ダービー史上(というか恐らくGI史上)最大の波乱と言われる1949年ダービーをタチカゼで制した調教師だということである。単勝55430円というから物凄い。当たるどころか、最大18頭となった現在の競馬ではそもそもこんな単勝オッズを目にすること自体がほとんど皆無だ。レースは皐月賞馬で断然の一番人気トサミドリ(その後菊花賞も制して二冠を達成)が大暴走して直線失速。二番人気ミネノマツ(馬主は河野一郎)は向正面から三角にかけて行き場がなくなり内埒を飛び越えて競走中止。レース後に騎手全員が戒告を受けるという大混乱の中、後方から進んだ23頭中19番人気のタチカゼが直線で12番人気の牝馬シラオキを交わしてゴールインした。以前、「競馬王」誌上で歴史上の大波乱レースの投票数から「もし馬連があったら」という仮想配当を試算する記事があったが、もし馬連があれば数百万馬券という結果だった。三連単なら億単位になりかねないだろう。
この世紀の大波乱の中、ダービートレーナーとなった肝心の伊藤勝吉師はというと、なんとレース前にタチカゼのあまりの調子の悪さに匙を投げ、こともあろうにダービー当日は先に京都に帰ってしまっていた。当時はまだテレビ放送がなく、ラジオ中継の時代である。さすがラジオ時代というべきか、京都競馬場で中継を聴いていた伊藤師の反応がすごい。「タチカゼが勝ちました」と実況アナウンサーが言っているのを聞いても喜ぶどころか「ウソだ!そんなはずはない!」とラジオの前で断言してタチカゼの勝利を信じようとしなかったらしい。間違いなくタチカゼが勝ったとわかると「勝ったか」とつぶやいてその場にへたりこんでしまったという逸話が残っている。調教師がこんな具合だから、ファンも買えるわけがなかったろう。
ダービー制覇に人一倍執念を燃やしていたという伊藤師だが、ついにダービーを勝ったのはこの一回きりとなり、悲願の瞬間を自分で目にすることはできなかった。本人としては痛恨だったろう。しかし、この悲喜劇(とはいえ、実際に勝ってはいるのだから「喜悲劇」というべきか)を思い出すたび、いかに競馬というものが意外性に満ちており、時としてプロ中のプロでも想像だにしない結果をもたらす競技であるかを再認識させてくれる、いかにも競馬らしいエピソードだと思うのだ*1
そして、歴史は繰り返す。いつかタチカゼ3世が現れることを果たしてヘーゲルが予言したかどうかは知らないが、いずれまた1949年ダービーのようなレースがやってくる。その時は調教師すら予想していなくても俺は当ててみせる、などと穴党のbroadmindとしては意気込んではみるものの、2度目だろうと3度目だろうと茶番に終わるであろうことは言うまでもない。

*1:なお、伊藤調教師から「無事回ってくればいいから」という指示だけ受けて送り出されたらしいタチカゼ鞍上の近藤騎手はその後、レース中の落馬事故でこの世を去っている。だからこのエピソードを思い出すたび、競馬がいかに危険な競技であるかもまた、頭をよぎる。