デュプレ・バレンボイム「フランク ヴァイオリンソナタ」

父がブログで、ジャクリーヌ・デュプレについて書いている。ちょうどその前日に、デュプレのCDを聴いたところだった。自分にとってもちょっと特別な一枚である。
そのデュプレとバレンボイムのCDは、1年半ほど前に買った。名盤として知られているものだが、まだ聴いたことがなかった(とそのときは思った)ので、主にショパンチェロソナタの方がお目当てでこのCDを買ったのである。このショパンソナタも名曲・名演でありいつか語りたい代物なのだが、実は焦点はもう一曲の「フランク ヴァイオリンソナタ(チェロ編曲版)」の方にある。このCDを買って初めてフランクのソナタを聴いたところ、私は直ちに「この演奏は聴いたことがある」と直感した。言っておくが自分もクラシックファンの端くれなので、フランクのソナタくらい聴いたことはある(当たり前だ)。この曲を聴いたことがあるという意味ではなくて、「この演奏」を間違いなく聴いたことがある、という話である。それも何度もある、というか「聴き慣れている」演奏であるとすら感じた。
しかし、父の所蔵CDは概ね把握しており、その中にこの一枚がなかったことは知っている(だからこそ自分で買ったわけだ)。どこでこの演奏をそんなに何度も聴く機会があったのだろうか。確信はあるものの、「いつ聴いた」という明確な記憶がなかなか手繰り寄せられない。
だが、第一楽章の「聴き覚えのある」美しい旋律を聴いているうちに、徐々にある光景が甦ってきた。リフォームする前の実家の居間の風景だ。間違いない。LPだ。父はこのデュプレ・バレンボイムのLPを持っていたに違いない。LPということになると、恐らく最後に聴いたのは25年近く前であろうが、それだけの印象を残す演奏だったということだろう。しかも、当時忙しくてあまり家にいなかった父が、たまの休日に家にいるとしょっちゅうこのレコードをかけていたに違いない。
直ちに実家にメールを送ると、果たして、このLPは父のかつての愛聴盤だったということだった。にも関わらず、CDに切り替わる際になぜかコレクションから漏れてしまっていたために20何年ぶりの再会となったわけだ。
子供の頃の自分が、この曲を「キレイな曲だ」とは思いつつも、同時に「怖い」と感じていたことも思い出されてきた。第一楽章の美しい旋律にうっとりしながらも頻繁な転調で不安に苛まれ、緊張感漂う第二・第三楽章にかなりの圧迫感を覚えていた。狭い家のくせにオーディオ機器だけは豪華だったせいで圧迫感がさらに増幅されていたのだろう。第四楽章に到達すると解放されて視界がパッと開けたようでホッとしたものだ。
久しぶりに、本当に久しぶりにこの演奏を聴いて、郷愁という表現もちょっと違うかもしれないが、5歳くらいの小さい自分がそこに座って聴いているような、すごく不思議で懐かしい気分になった。父はちっとも家にいなくて(こればっか)、たまにいると本を読みながらレコードばかり聴いていた(この行動パターンは現在に至るまで本質的に変わらない)。母はピアノの先生をしていて、当時はまだ毎日のように生徒さんが来ていた。自分はレゴやプラレールで遊んでピアノのレッスンが終わるのを待ちながら、一緒に遊ぶ兄弟がほしいなぁと思っていたのだった(その後、7つ年下の弟が産まれることになる)。
当時はもちろん、デュプレがどんな人か、どんな境遇にあるかなんてことは露ほども知らなかったわけで、それでも幼い自分にこれだけの鮮烈な記憶を残していたとは、改めて音楽の持つ不思議な力を思い知らされることになった。そんなわけで、このショパンとフランクのCDは、最近大いに愛聴しているわけである。でも、そんな個人的な思い入れを抜きにしても、本当に素晴らしい演奏だと思う。
しかし、父がかつてデュプレのコンサートに行ったにも関わらず病気でキャンセルだったという話はブログを読んで初めて知った。クライバーの日本公演も高いチケットを入手しておきながら「病気」キャンセルの憂き目に遭い、代わりにシノーポリの演奏を聴かされるハメになったはず(笑)なので、意外と演奏会運のない父である。