自作自演vs狂言

ネット文化発「自作自演」という表現がいつの間にか正規メディアの記事でも当たり前のように使われるようになっているのですが、私は昔ながらの「狂言」という表現の方が好きです。これらの表現が妥当する事件・事象は色々ありましょうが、「自作自演」という表現がその表層的な音韻の軽さとは裏腹に非常に冷笑的で陰湿な響きを帯びるのに対し、「狂言」という言葉にはそれ自体コミカルというか悲喜劇的なニュアンスがあり、例えば同じ事件・事象を表現する場合にも「狂言強盗」というのと「ジサクジエンの強盗」というのでは受ける情緒的な印象がかなり異なると思っています。
自作自演の元来意味するところを考えるに、これが価値を持つためには作品を作る能力にも演じる能力にも長けていないといけないわけで、よほどの巨匠か有名人でもない限り単に自己完結的、マスターベーション的な自己表現行為として解釈される余地が大きいのではないでしょうか。一方、狂言は喜劇でありながら伝統芸能で、昔からある「型」を演者と観客の共通了解の下で演じるということになるのかと思います。恐らくいわゆる自作自演・狂言的行為自体は昔からあるのだと思うのですが、「自作自演」においてはそれが言わば隣人なき地平で個が行う不毛なマスターベーション的行為(そしてそれを冷笑する我々)として解釈されるのに対し、「狂言」ではそうした行為を我々が文化的に共有する「型」として笑ってしまおうというtoleranceを感じるといってもいいのかもしれません。私の妄想と言われればそれまでなのですが、こんな表現の変化一つにも現代社会の縮図が現れているような気がしてならないのです。