天皇賞回顧

メイショウテゾロ→上籠
メイショウドトウ→安田康
メイショウオウドウ→飯田
メイショウボーラー→福永
メイショウヨシイエ→佐伯
メイショウワカシオ→嘉堂
メイショウサムソン→石橋

このメイショウ軍団の素晴らしさをどう表現したらいいんだろうか。例えば、アドマイヤ軍団なんてメイショウの10分の1くらいしかイメージがない。「アドマイヤベガ」と言われても、「ダービー馬なのに『三強』の中で一番存在感の薄い、TTKにおけるクライムカイザー級の馬」というのが自分の中での認識だ。アドマイヤドンなんか、何度聞いてもアドマイヤボスと区別がつかない。アドマイヤグルーヴとかも名馬なのだろうが、とにかく記録に残っても記憶に残らないこと甚だしい。アドマイヤコジーンとかアドマイヤマックスとかも「あー、そんな馬もいたような気がする」程度。とにかく、「良血、橋田/松田博、ユタカ/アンカツ(あと、後藤も?)」の組合せのどれか、という以上の印象が残っていないのである。
それに比べて、メイショウの名馬達はどんな馬で、どんなジョッキーが主戦で、どんな戦績だったか、GIと無縁だったような馬でも生き生きと思い出せる。血統的にも地味で、最近もメイショウホムラ産駒のメイショウバトラーが重賞を勝ったことが話題になった。そうしたメイショウの馬達を生産する牧場の多くは中小である。このSS系良血、大資本全盛の時代にこうした戦略で結果を出している馬主は極めて貴重だといえる。とはいえ実際のところ、broadmindとてもメイショウ各馬の熱烈なファンだとかいうわけではない。しかし、「軍団」というか、馬主としての格の差は明らかだ。メイショウの松本好雄氏は、関口房朗と並んで―それぞれに全く違う方向性でではあるが―「あるべき馬主」の姿を体現していると思う。それに比べて、近藤利一は「悪い馬主」の典型であると言わざるを得ないだろう。
何も単純に「マイナー血統の馬を生産しろ」「マイナー騎手を乗せ続けろ」と言いたいわけではない。別に松本氏は好事家的な関心から矢原や沢(失礼!)を乗せろなどと言っているのではなく、「自分には競馬のことはわからないからローテや騎手選定については調教師に任せる」というスタンスを(30年来のベテラン馬主であるにも関わらず)貫いているのだ。だから、メイショウの馬に武豊が乗ることももちろんいくらでもある。しかし同時に、瀬戸口師がサムソンに石橋を乗せ続けるという決断を、山内師がテゾロに上籠を乗せ続けるという決断を、誰にも気兼ねすることなくできる、逆に介入がなければ彼ら調教師はそのような決断をする(場合が往々にしてある)ということが競馬界にとって大事なことなのだ。そして上記の通り、メイショウバトラーのような馬が重賞を勝つこともある。そこに必ずしも浪花節めいた逸話が常にある必要はなく、「色々な騎手が色々な馬に乗っている」という多様性はエンタテインメントとしての、ギャンブルとしての競馬にとっても必要不可欠だ。毎回GIの人気上位5頭に同じ騎手が乗っているような状況がむしろ病的で、スポーツ/エンタテインメントとして遠からぬ死を宣告されたも同然である。
正直、馬券的には今回メイショウサムソンが来るとは全く思っていなかったのであるが、サムソンと石橋のコンビがポストディープ時代に新たな一歩を標したことは嬉しく思う。引き継ぎの幸運とはいえ、ちょっと独特な調教師である高橋成師のGI初制覇も競馬の面白さを再認識させてくれるニュースだ。


そういえば天皇賞から話は逸れるが、ヴィクトリー陣営が皐月賞における田中勝春の騎乗に不満を持っておりダービーでは乗り替わりの可能性あり、という情報を目にした。真偽のほどは定かではないが、もし音無調教師も含めてそう思っているのだとしたら片腹痛い話である。音無調教師は騎手としては通算わずか84勝。しかしその中に燦然と輝くオークス勝ちがあるのはノアノハコブネに乗せてくれた馬主小田切有一氏のおかげである。彼もまたベテラン馬主であるにも関わらず自分の馬に特定騎手を乗せようなどとは強要しないタイプで、だからこそ音無はノアノハコブネに乗れたし、調教師としてデビュー後も現在に至るまで小田切氏は多くの馬を音無調教師に預けている。つまり、音無師の現在の地位はそうした厚意の馬主のおかげだというのに、リーディング上位の常連となり、近藤陣営からも有力馬を預かる立場になったら、あの皐月賞田中勝春の騎乗に難癖をつけてダービーでは他の騎手を乗せようなどと考えているのだろうか?もしそうだとしたら音無も偉うなったのぉ、というかもう師には小田切氏のような馬主の馬は預からないようにして頂きたいものだ。