そして鬱になるわたくし

本日、世界銀行/日本政府奨学金に落選。インド到着以降最大の鬱。
まあ、元々がフルブライト奨学金を頂戴しているのだから、二年目は学費全額カバーではないとはいえあまり贅沢を言えた筋合いの話ではない。しかし、やっぱり百万単位の出費の違いが出てくるという経済的インパクトは言うまでもなく巨大だし、今回はかなり自信があっただけに正直ショックはデカい。こんなものは水もの。それに今さらうだうだ考えても仕方ない。そんなことはわかっている。しかし、なぜだ。
思えば、お受験戦士の感覚というのも冴えていたのは中学に受かったところまでで、それ以降は狂いっぱなしである。大学入試では合格を確信していた前期で落ち、不合格を確信して浪人の準備をしていた後期で合格。就職活動でも適当に応募して面接でも手応えがよくわからずほとんどどこも諦めていた外資系金融からは軒並み内定を頂き、唯一綿密な準備をして臨み手応えもあったと思ったJBICだけ落ちた。今回も締切間際にバタバタと応募書類を書いてネイティヴチェックすら経ずにボロボロの英語で提出し面接でも大した印象を残せたとは思えなかった昨年のフルブライトはなぜか合格し、時間をかけて準備し推薦状も応募書類も文句なし、経歴から考えても倍率から考えてもフルブライトより遥かに容易と思われた今回の世銀奨学金は落選した。
まあ世の中そんなもんだ、というのは簡単である。しかし、深刻な問題は、こうして自己評価と他人の評価との度重なる乖離を前にして、自分という人間の価値が自分でよくわからないということなのだ。別に思春期のように素朴に「自分に価値がない」ということで思い悩んでいるわけではない。それなりの経験も勉強もしてある種の自信は昔より遥かに獲得している。しかし、それで自分がしたいと思っていること、できると思っていることと、他人が自分の中に見出している価値や適性が大きく違っているとしたらどうすればいいのか?
broadmindの指導教官はかつて言った。「何ができるかよりも、自分に何が向いているか、何ができるかを『知っている』ことこそが本当の才能だ」と。けだし明言である。しかし、明言である、などとすまして構える前に、この言葉を思い出すたびにやはり自分には全く才能がないのではないかとやるせない気持ちになる。自分の「できること」の選択肢の中にはどういうものが残っているのか。憂鬱を抱えながらチェンナイの日は暮れゆく。