ストラヴィンスキー「ヴァイオリン協奏曲」

オフィスの空調が故障してとても仕事にならないので、アメリカ出発前にノートPCにぶち込んできたCDを聴いて現実逃避。
そもそもはシャハムのこのCDバルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番バルトークのヴァイオリン協奏曲の聴き比べをしようと思って購入した女帝ムター様のこのCDデュティユー:同じ和音の上に / バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番 / ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲であったのだが、ほとんど聴いたことのなかったストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲が妙に気になる。
春の祭典」はそれこそ10何種類の録音で何百回と聴いているが、春祭は1913年の作曲であり、彼が1971年まで生きていたことを考えると正直「春祭以後」のストラヴィンスキーについてはあまり知らないなというのが実感である。いわゆる新古典主義時代の1930年代に作曲されたこのヴァイオリン協奏曲も四楽章とも同じ和音から始まる「パスポート主題」という怪しい構成、どっかからパクってきたような旋律の数々、聴きようによってはナメとんのかワレ?!という感じでお世辞にも「名曲」とは言えない微妙な曲であることは間違いない。
しかし春祭とは全く趣を異にするバロック的な曲でありながら、随所に20世紀でなければありえない音響、というよりもストラヴィンスキーでなければ考えられないオーケストレーション、いうなれば「ストラヴィンスキーの天才」を感じさせる曲なのである(そんな気がする)。
20世紀の病的な数々の前衛音楽や非西洋音楽の普及で21世紀の我々が20世紀初頭の聴衆とは比べものにならないほど「不協和音慣れ」していることは確かだろうが、それにしても初演から100年近くを経ていまだに前衛の香りを残す「春祭」が一方であれほど違和感なく聴ける曲であることも大いに謎であるし、このヴァイオリン協奏曲のようにその後は古典回帰といいながらどこかで聴いたようでやはり未体験の独自の世界。「前衛的な割に妙に俗っぽいがよく聴くとやはり天才だとしか思えない」というのがストラヴィンスキーについての結論か。このヴァイオリン協奏曲もどうにも不思議な中毒性がある。