村上ファンド

といっても村上氏逮捕の論評ではない。
各ニュースサイトに掲載されている「記者会見場に入る村上氏」の写真を見ると、どの写真にも村上氏に付き添うようにして歩いている、ちょっと日本人離れした要望の色黒の好男子が一緒に写っている。それがA氏である。
3年前まで、A氏は某社で私の隣の席に座っていた。私が新入社員として入社したのとA氏が転職してきたのとがほぼ同じタイミングだったが、キャリアもあり一つ年上のA氏は外資の習慣でも先輩扱いで、最初に仕事の仕方を色々と教えてくれたのもA氏であった。A氏は優秀な人なので彼を愚弄するつもりは毛頭ないが、それでも彼は例えば松本大のような文字通り「別格」の人間ではなかった。これは「大したことないくせに!」ということが言いたいのではなくて、本人の意欲と努力次第で「別格」でない人間でもかなりの富を手に入れることが可能だという話である。これはこれで素晴らしいことだ。一方で、こうした彼の「身近感」は、ひょっとしたら自分も・・・という想像上の「置き換え」を容易にする面もある。
このニュースサイトの写真をチェンナイで眺めるのは何とも不思議な気分だ。かたや、(今回の件でのつまずきがあったとはいえ)今をときめく日本を代表するファンドの社員として30歳そこそことしては信じがたいほどの高給を稼いでおり、かたやインド・チェンナイのホステルでしがないインターン生活である。
この感情を説明するのは難しい。端的に「羨ましいか、羨ましくないか」と問われれば、それはもう羨ましいという以外に回答のしようがないだろう。港区の高級マンションに住んで美味しい料理と酒を楽しんで芸能人とパーティーを開催できる身分である。だが、じゃああのとき辞めなければよかった、あのまま続けていれば俺も・・・といった強い後悔の念に襲われるかというと、こちらも好きでやっていることではあるので、そこまでドロドロとした羨望みたいなものはない。どこまで「身近感」があっても「結局、自分にはできないことだったのではないか」という感覚をぬぐい去れないからなのだろう。それは選択の問題であり、適性の問題であり、そしてそういう面も含めた総体としての「能力」の問題であり、やはりどこかに超えられない壁があるのだ。
あれから3年。みんなどうしているのだろうか。アナウンサーになった同期がいる。大手メーカーに転職した同期がいる。ベンチャーを始めた同期がいる。劇場経営をやると言っていた先輩もいた。主婦になっている先輩もいる。もちろん会社に残っている同期も同業他社に転職した同期もMBAにいる同期もロースクールにいる同期もいて、そして、隣にいた先輩は村上世彰に付き添っていて、自分はインドにいる。自分のいた部署は実質的に消えて無くなってしまった。それが信じられないというよりも、あの会社でみんな一緒に働いていた時期があったということの方がむしろ信じられないような気がする。
諸行無常。人間は孤独だ。そしていつか死ぬ。
この孤独の向こうに皆何を求めて生きているのか。ニュースサイトの写真を見ながらそんなことを考えてしまう自分は、やはり一生村上ファンドと縁はないのだろう。