ボストン響の第九

まずは、レヴァインがコケた、と。知らずに行ったもんだから、指揮者が登場した瞬間に???状態。レヴァインがどんなダイエットしようがこんな体型にはならねーぞ?やはり奴は宇宙人で別の体にでもなったのか・・・?てか、どう見ても別人だっつーの。ということで、弱冠三十四歳の指揮者助手、バッハマンが代役。
で、演奏だが、うーむ、と首をひねってしまった。第四楽章はさすがのド迫力で、百人を超える合唱隊とフルオケが歓喜の歌を歌い上げるとその感動たるや・・・というところではあるのだけど、正直なところ、「生で聴く」ことの感動が主であって、当夜の演奏のクオリティによる感動ではなかった気がする。もちろん、いくら生で聴いても一流オケでなければそもそも出ない迫力だったことはいうまでもないが。
まず、バッハマン急遽登板のせいか(と思ったけど、もう三日目くらいではあったんだよね)、ちょっとバラバラな箇所が多かった印象。第一〜第三楽章は急ぎすぎで、弦や木管が揃っていないところもあったし。しかし、そもそもフルトヴェングラーの名盤で育った相変わらずミーハーの自分としては、このポップス的な解釈に馴染めない。先日聴いた七番は、こういうクライバーレヴァイン(もっと極端な例でいうとジンマン)の延長線上にもまだまだ名演が出てくる可能性があるように思ったけど、第九を同じ路線でやろうとするのは無理じゃないかしら?もちろん、フルヴェンの重厚さにしても、カラヤンの一体感にしても、後続が単にマネしたって仕方がないわけで、新しい解釈の可能性を常に探るのは大事。しかし、第一楽章の出だしの和音からして、あそこまで軽いアッサリとしたテンポ&音の切り方で進行されると、「おぉ!これは新しい」という印象の前に、ズコッ、となってしまうのである。「ベートーヴェンは難聴の苦悩の中から〜」みたいな演奏に際してはどうでもいい無粋なことはいいたかないが、この第一〜第三楽章の軽さでは第四楽章での歓喜の爆発につながっていかないということは強調しておきたい。『おお友よ、このような音ではない!』とバリトンが低音で歌い始めるだけの深刻さがその前に何もないんだっつうの。
なんか、伝統的なコース料理を楽しみにレストランに行ったらちょっと勘違い系のヌーベル・キュイジーヌを食わされた感じ。調理の方向性が間違っていても素材と料理人が良ければメインではさすがと思わせる料理が出てくるのは一流レストランの証。でもそこまでの構成は糸冬。そんなところか。