オリンピックに足りないもの

さて、オリンピックもいよいよ閉幕だが、この物足りない感は何なのか?日本のメダルが少なかったから?いや、日本の過熱(?)報道に接してなかったせいか、最初から大した期待はしていなかったし。アメリカの中継しか見られないから?それはあるけど、日本の中継を見たからといって格段に満足感が違ったとも思えない。なら一体何なのだ?
などとつらつらと考えていた結果、一つ重大な「足りないもの」に思い当たった。しかも他人が気付きそうにないもの。これはちょっとすごい発見だぞ。一体何が足りないのか?それは何を隠そう、「ナンシー関」である。彼女が健在であれば、マスコミのバカ報道から、スノーボード陣のDQNぶり、荒川静香のクールビューティーまで、抑えた筆致ながらその鋭い分析力とウィットに富んだ文体で縦横無尽に斬っていたはずである。もちろん、あの消しゴム版画も。今回なら童夢君か国母あたりの似顔絵に「フルコース 召し上がれ」のメッセージつきでどうだろうか?
無論、ナンシー関の活躍ぶりは何も五輪の時期に限ったことではなかったが、例えば松岡修造と長嶋一茂のオリンピック司会権をかけた対決特番を取り上げた回などは記憶に残る傑作であり、この「定期的な非日常イベント」に際しては彼女の鋭い感性がいつも以上に発揮されていた印象がある。
思えば彼女が亡くなったのはもう四年前であるから、アテネ五輪時にはすでに彼女はいなかったわけであるが、直球勝負の物量作戦でごまかしが利く夏季五輪に比べて元々が種目数も少なくマイナー競技が多い冬季五輪は一度滑り出すと途端にその「作られた盛り上がり」っぷりが馬脚をあらわす。今回はその典型であった。そうなると、単に成績低迷を批判するでもなく、数少ない活躍競技ばかりを取り上げるでもなく、盛り下がり方や滑り方自体をさえも上質の笑いに転化させてしまうような変化球を投げられる人間が欲しくなる。この「盛り下がったら盛り下がったでそれもまた一興」感が今回不足しているものであり、その大きな原因の一つがナンシー関の不在であるとbroadmindは考える。
日本では誰か彼女の代わりを務めてくれているのだろうか?やっぱり無理だろうなぁ。