音楽のローカル性
音楽のローカル性なんて当たり前のような話だけど、「作曲する」「演奏する」だけでなく、「聴く」というフェーズにおいてもローカル性というのはあるんだなというのを最近実感した。
パット・メセニー・グループ(PMG)のレター・フロム・ホームを聴いていたのだが、これが不思議と日本にいたときよりも数段良いCDに感じられる。パット・メセニーはbroadmindの好きなミュージシャンの一人でPMGのCDは何枚か持っているが、これまではどちらかというとフュージョン色の強い(特にブラジルの影響が色濃い)レター・フロム・ホームとかよりも、ヒップホップ色が強いとされているウィ・リヴ・ヒアの方が好みであった。これはハードコアなメセニーファンからするとそもそも邪道なのかもしれないが、どっかの民族曲から取ってきたようなメロディをつなげたフュージョンものはともすれば安っぽい映画音楽のようにも聴こえるのに対し、ウィ・リヴ・ヒアはジャズファンとしても、J-POP経由で今や日常的にヒップホップのリズムを耳にして慣れている日本人の感覚からしても違和感なく聴くことができ、構成としてもがっちりと作られているような気がしていたのだ。
しかし、なぜここにきてレター・フロム・ホームの方が?と考えると、要するに自分が今アメリカに住んでいるということに尽きるのではないだろうか。音楽の新しい方向性か、単なるおいしいとこ取りの折衷か、なかなか判断が難しいフュージョンもの。しかし、考えてみればアメリカという国自体が、新しい文化と文明の発信地のようでもあれば、いかがわしい紛い物国家のようにも見える微妙な存在だ。そう考えながら聴くと、ボサノヴァ風のリズムの上でどこから来て、どこへ行くのかわからないように展開されるメセニーのソロも新鮮に、かつ身近なものに感じられてくる。それに、ヒスパニック系の人達がスペイン語しゃべってるのを聞いてると自分もちょっとしゃべってみたくなるし、地下鉄の駅では流しでボサノヴァ歌ってるおじちゃんがいて、スティールドラムなんかも毎日どこかでBGMで流れてる、そういう環境だと、楽器を弾かない自分でも色々使ってみたくなる気持ちはわかる気がする。なんでそこでこのメロディー使うのよ?!みたいに日本にいたときは不安や苛立ちを感じた部分に、あー、確かにやってみたくなるよね、こういうの、と抵抗なくスッと入っていけるのだ。
メセニーついでに、マニアックな独り言。broadmindがメセニーの演奏を聴いたのは多分、ディファレント・トレインズが最初。ミニマル・ミュージックの創始者として知られるスティーブ・ライヒの実験的な作品を集めたこのCDに「エレクトリック・カウンターポイント」という曲が収録されていてこれをメセニーが演奏している。似たようなフレーズを反復しながらギターの音を少しずつ増やし、ずらしてまた同じフレーズを重ねていく、という古典的なミニマルの手法だがかなり完成度の高い名曲だと思う。それはいいのだが、多分世の中でこのCDからメセニーに入った人間はほとんどいないことであろう(笑)。さらに言うと、CD名にもなっている「ディファレント・トレインズ」はあのクロノス・カルテットによる演奏。こちらは曲自体としては失敗している部分も多いと思うが、時々無性に「one of the fastest trains♪」と口ずさみたくなる。病気www