若井佐吉商店

本郷三丁目の駅を出て間もなく、結納品専門店の「若井佐吉商店」がある。「結納品専門店」と聞くと「今どき・・・」という感覚を覚えるのが正直なところであろう。今日出勤時に通りかかったところ、墨跡凛々と「五階で営業致しております」と張り紙がしてあった。実際のところ儲かっているのかどうかは知らない。しかし、ひょっとすると今やお客さんも少なくなったので商売を縮小して五階で細々と営業しているのかな、などとつらつらと想像しながら、向かいの新しいカフェでコーヒーを買って歩いてきた。
このカフェにしても、自分が本郷に来るようになってからこの場所で何軒目の店だろうか?かつて隣にあったCD屋は足裏マッサージ屋となり、今はおむすび屋だ。コーヒーは美味しかったが、客はあまり入っていなかった。すぐ近所のドトールやスタバは客で賑わっているのに。恐らくマーケティング上何かが間違っているのだろうか。でも、だから何だというのだろう?
若井佐吉商店に話を戻そう。この店は「本郷もかねやすまでは江戸の内」と言われたかねやすと同じブロックに店を構えて130余年と聞く。上に書いたようなここ数年での周囲の移ろいなどバカバカしくなるほど、この街の変化の歴史をずっと目撃してきたに違いない。このような由緒あるお店―――恐らくは大した欲も野望もなく淡々と伝統を司り守ってきたであろう―――が営業を縮小し、あるいは消滅の危機にあるとしたら、一抹の寂しさを覚える。しかし、我が身を振り返れば、面倒だしお金もかかるからということで妻とは結納を行わず、両家の両親とレストランで食事会を催したのみであったのだから、何をか況や、伝統の廃れを問題にするならば自分も立派な共犯者なのである。
アナクロニズムに走るのも建設的かどうか疑わしいし、結局、変化は誰にも止めることができないし止めるべきでもないんだとそこで完全に開き直れればそれはそれで楽なのだろうが、この、時代から取り残された(とはいってもこの店自体、立派な自社ビル?に改築しているのだが)ような店を前にして、自分達の「合理的」な思考や行動がもたらす帰結に対する、罪悪感とまでは言わないにしても、ある種の後ろめたさ、切なさや違和感というものが自分の心の中に少々苦い味となって広がることを再確認する。
ロンドン同時多発テロの容疑者は「パキスタン系イギリス人」だそうである。彼らがなぜ過激な活動に身を投じ自爆テロを敢行するに至ったのかは現時点では知る由もないが、あるいはこうした「違和感」の遙か延長線上にはテロ行為までもが視界に入ってくるのであろうか、それとも宗教的原理主義という彼岸の感覚の前には、このような自分の国/街に対する複雑な感情など皆無の破壊衝動だけが立ち現れるのだろうか。一体彼らは「自分の国」の首都であるロンドンの街を見て何を思っていたのか、そんなことが気になって駅の方をちょっと振り返った。