八日目の蝉

最終回の放送からすでに4日経過したが、書きかけのエントリを放置していたらどうにもモヤモヤが解消されないので、書き上げてしまうことにする。


一ヶ月間にわたって痛めつけられてきたこのドラマ。女性はこれまともに見られるんだろうか。男の自分が観た後に毎回ぼろぼろになってしまうくらいだから。
このドラマの何が「イイ」のかを説明するのはなかなか難しい。二歩くらい間違えば、民放の昼ドラと変わらない、ただのうざいドロドロドラマである。不倫相手の男に中絶させられて子供を産めない体になり、男と本妻の間に産まれた子を発作的に攫って逃げて自分の子供として育てる。言うまでもなく犯罪である上に、やってることがキチガイである。さらに、モノローグで明らかなように、捕まって服役する段になっても、一人称は「お母さん」であり、子供のことは「薫」という自分が勝手につけた名前で呼んでいる。全きキチガイというほかない。にも関わらず、民放うざドラのように鼻であしらうことができず、毎回終わる頃には疲れてボロボロ。野々宮希和子というこのアンチヒロインにどうして感情移入してしまうのか。できてしまうのか。
それは、このドラマが、親という生き物がおしなべて抱えている狂気や、親子関係の不条理といった、古くさいが永遠に身近であるがゆえに難しいテーマを静かに、しかし鮮やかに描いているからだと思う。要は、キチガイに感情移入できるのは自分もキチガイだからなのだ。親はそもそもキチガイである上、子を喪った親は輪をかけてキチガイである。希和子が薫の母親になることは、自分の子を喪ったこととセットになっている。このドラマが疲れるのは(と同時に優れているのは)、色々な形で子供や親子関係を喪失した人間達が希和子の周りに現れ、そんな中で希和子の場合には、決して埋まることのない彼女の絶望が、攫った子である「薫の母親になる」ということで(極めて歪んだ形であるにも関わらず)埋まっているように見えてしまうからであり、そのように「見えてしまう」自分の中のキチガイぶりとも向き合わなければならなくなるからなのだ。どよーん。
ことあるごとに言っているのでしつこいと思われるかもしれないが、親が子供を産むのではない。子供が親を「親」にするのだ。希和子は子供を産めない体になったが、薫が彼女を母親にさせてくれた。そして、ひとたび親になってしまった人間は、親でない生き物には二度と戻れない。どんな理不尽な理由で「親子」になったのだとしても。そして、どんな理由で子を喪ったのだとしても。ほんと、いいドラマだけど重たいです。




以下雑感。

檀れいのベタベタな演技がイヤだという人もいるのだろうが、これはこれでよかったと思う。だってキチガイなんだから、この役。小説原作の強みか浅野妙子のセンスか、希和子のモノローグは毎回本当に美しくかつ強烈。
周りのキャストも超豪華なので締まっている(その分、成長した薫=恵理菜が中心となる現代編はどうしてもちょっと軽い。北乃きいも頑張ってはいたが・・・)。坂井真紀もよかったなあ。「亮太が好きなんは、チョココロネや!!」は心に残る名台詞。

タイーホされるときのあの一言は、作者よく思いついたなぁ。例えば自分がもし今、死の床に就いて、喜実子が見舞いにきてくれたら、多分、ただ「今日は幼稚園で何して遊んだ?」って聞くんだろうな。それが最後の会話になると知っていたとしても。あの一言も、親という生き物のキチガイぶりが非常によくあらわれた名台詞だと思う。