オリンピック、または中国と世界の現在

北京オリンピックは、狭義での政治的な動向とは別に、未曾有のスポーツイベントという窓を通して中国の現在を垣間見、また認識を新たにするイベントであったと個人的には思う。期間中の各種「事件」に対する中国国内での反応(として一部メディアで伝えられているもの)にそれは端的に現れていた。
開会式での「口パク」にせよ「CG花火」にせよ、「演出を揶揄、嘲笑する外国に対していきり立って擁護する中国人」という構図ならむしろわかりやすい。しかし、それなりの「ニュース」として迎えられたにせよ、比較的海外での受け止め方が冷静であったのに対し、中国国内での反発がそれなりにあった(らしい)というのは非常に興味深いことだと思う。日本人、あるいは先進国の人間の感覚からすれば、2008年現在、大規模イベントでそうした「演出」が入るのは「よくあること」で、それが「中国」だというような文脈を抜きにしても、その程度の「虚構」が入っていたからといってなんぞ大騒ぎするようなことなのかなぁ、というところがあるように思う。
あえて言えば、「56民族団結」の方が、これがほとんど漢人だったというのは海外から見るとかなり「おいおい」と突っ込みたくなる部分だと思うが、各種報道を見る限り中国国内ではこの点に関する反発はむしろ少なかったと聞く。ということは、中国人(少なくとも漢人)の感覚からすると、「多民族国家」という中国のお題目はある種の虚構であることは周知の事実である上に、しかもその虚構が開会式で露呈しても構わないということになるのだろうか。
してみると、「例えタテマエであっても何があの開会式のようなイベントで『守らねばならない』ものであって、何が『別に虚構でもいいじゃん』と開き直れるものか」という感覚は、やはり先進国と中国では間逆なのかなぁと思われるのである。多分、我々の「普通な感覚」は、「花火なんかCGが混じっててもいいから、56民族は多少無理しても本物集めないとマズイっしょ」というものではないかと思う。
これにはいくつか解釈の仕方が考えられて、まず、中国人の怒りを承知で、「やっぱり中国はまだまだ絶望的に途上国なんだなぁ」という切り口は考えられる。技術の粋を集め国家的結束の力を尽くした偉大なイベントで高揚したい一方で、「感動させてくれたんだからウソでもいいじゃん」という消費/情報化社会の開き直りが到達していない、「現実(リアル)」に拠り所を求めるポストモダン以前の市民/消費者がそこには存在する。
その一方で、では「民族団結」の虚構に違和感を覚えないのはなぜか。想像するに、生まれた時から政治的プロパガンダを浴び続けている中国人にとって、明確な政治的メッセージに「本物」「現実」なんてないというという「プロパガンダリテラシー」のようなものが彼らには身に付いているということなのではないだろうか。また、所詮中国は漢人の国、という意識が皮膚感覚のレベルではあるのかもしれない。しかし、チベットウイグルの問題がそれなりにクローズアップされる中で、「国民国家」「多民族国家」というものに対して漢人の理解が決定的に欠如している限り、虚構であろうが本物であろうがその演出は上滑りするだけで、どこまで行っても先進国の敬意は得られない。にも関わらず、56民族にそのようなインプリケーションがあるという認識は中国人の間では極めて希薄であるように思う。
ここで、敬意なんて関係ない、中華帝国の偉大さの前に世界を平伏させたいだけなのだ、とまで極論するならば、なんでそもそもオリンピックみたいなイベントにそこまで力を入れるの、という話になるだろう。単純に大国としての存在感を示して世界を震撼させたいだけなら、奇しくもオリンピック期間中にグルジアを滅茶苦茶にしたロシアの方がある意味で効率的だと思われる。よもや中国にそういう発想が皆無だなどと呑気なことを言うつもりはないが、しかし全体として、オリンピックという面倒なイベントを通じてまで政府がわざわざ世界に伝えたい(メタ)メッセージに国民の感覚の方がついてきておらず、大国としての示威的行動はできても「世界に冠たる中国を示す」という目論見とのギャップが大きすぎるという印象を受けた。
しかし以上の分析には大きな前提があって、それはメッセージを伝えようとする相手が「我々だ」ということだ。この前提を取り払えば話は違ってくる。つまりこういうことである。例えば、何だかんだ言っても高度消費社会に到達してる人間の方がまだまだこの地球上では少数派なのであって、北京オリンピックマーケティングの対象は物量的な演出に依然として素直に感動できる「中国以下」の国々なのだ、と言われれば、これまた中国人は腹を立てるかもしれないが自分としては腑に落ちるし共産党指導部がそのような発想を持っていたとしても愚かなことだとは全く思わない。56民族にしても、先進国よりも国民国家という概念に苦しめられてきた多くの途上国が対象だと考えれば、所詮は56民族なんてものは建前であってそんな演出はウソであっても何ら問題はないという発想もまた腑に落ちる。
開会式・閉会式の演出が物量的に凄まじいものであったのは紛れもない事実で、獲得メダル数の独走と併せて中国人自らがそれに興奮することはむしろごく自然なことである。しかし、1964年以降の日本や1988年以降の韓国が体験してきた道を、どうも2008年時点での中国がまだ「飛び越えて」いるわけではないらしいこと、そしてその後ろには膨大な数の途上国がまだまだ続いているらしいことを想像すると、発展過程でのカタストロフィの恐怖なんていうものを抜きにしても、どうしようもない徒労感のようなものを覚えてしまうのだ。