通り魔事件雑感

犯人の掲示板への書き込みというのを見て、99年の池袋通り魔事件のことを思い出した。
池袋通り魔事件の造田博は75年生まれ。自分とほぼ同世代だ。彼の部屋に残されていたという「わしもボケナスのアホ全部殺すけえのお」「アホ、今すぐ永遠じごくじゃけえのお」という走り書きの文面には言いようのない戦慄を覚えたことを思い出す。短いながらも、方言も相俟って社会に対する根源的な敵意や狂気がストレートに伝わってくる、非常に凄味のある文章だったと思う。日本語を母語とする者ならば、みんな一度噛みしめるように読んでみてもいい文章なんじゃないかとすら個人的には思っている。穏当な表現かわからないが、通り魔という重大凶悪事件を起こすに足る迫力というか「生気」が感じられるのだ。この走り書きの存在を知った時は本当に怖かった。
対する秋葉原の加藤某。現在25歳ということは、例の酒鬼薔薇世代に属することになる。彼の掲示板への書き込みでは確かに世間に対する怒り、苛立ちが表現されているし、執拗な書き込みには常軌を逸したものを感じるものの、どこまで真剣な、根源的な不満の表明なのか定かでない極めて表層的な内容のものも多い。一言でいえば「しょーもない」次元である。全体的に造田のような迫力には欠け、いくら犯行の予告らしきことを書いているとはいっても、通り魔事件を起こすに至るエネルギーレベルが少なくとも自分には全く感じられないのである。
「努力をしても報われない」自分の境遇への鬱憤から「努力をしないでのうのうと暮らしている連中に恨みを募らせる」という(許し難い思い込みにせよ)一応の内的連関が説明できる造田とは対照的に、「うまくいかないのは自分のせい」と表面上は自己批判しながら、そのじつ根本的な原因は自分の外に求めて努力自体を最初から拒絶し、かつ世間への不満を無差別殺人という形で表明する加藤には造田以上に「気味の悪い程度の低さ」のようなものを感じる。
造田の場合は、走り書きの文面自体が恐怖なのだ。それに対し加藤の場合は、その不満の稚拙さや内的連関の不明確さにも関わらず現実に犯行に至っているという事実が何よりも恐ろしい。しかし、それが殺人者の単なるパーソナリティの問題なのか世代が大きく関係しているのか、何となく後者のような気もするのだがどうにもまだよくわからないのである。


※本エントリでちゃんと言及する余裕がなかったが、地方からわざわざ東京に出て来て凶行に及ぶという共通項がある一方で「池袋」と「秋葉原」という彼らの現場の選択も、また一考察に値する対照かと思う。