アルバでふと思ったこと

12月中旬の先学期終了からほとんど勉強していない。さすがに卒業はできるだろうが、Ph.D応募を最終的にやめて、就職に関しても結論は出ていないが「ある」か「ない」かでいうと「ある」という意味ではゴールも見えてきてレームダック化が進んでいる。加えて、娘がとにかく可愛いので家にいるとついつい相手をしてしまう。これはこれで今しか得られない贅沢な時間だが、留学して勉強することもまた当然ながら「今しかできない」ことなので、ちょっと残り5ヶ月、気合を入れなければと思う。
というわけで時間をかけてブログを書いている場合じゃないな、というのがここにきての急速なペースダウンの背景にはあるのだが、アルバで思ったことはあまり日にちが経たないうちに書き留めておこうと思う。


アルバ滞在の最終日、3ヶ月の娘を連れてこんなとこまで遊びに来ちゃったなぁと思いながらふと気になったことがあった。それは、「父は生後何ヶ月で日本に帰ってきたんだろう」ということだ。broadmindの父は1946年3月に旧満州国新京市で産まれた。46年、というのが微妙なタイミングで、「満州国」が果たしてまだあったと言えるのかどうかわからないが、確か戸籍にはそう書いてあったように記憶している。
まあ新京からの引き揚げは地方と比べると一般にはそこまで大変ではなかったと聞いているが、それでも混乱時に伯母の顔を銃弾がかすめていったりというようなことはあったそうだ。幼い娘二人と乳飲み子の父を連れて帰るにあたっては祖父母のとてつもない苦労があったはずで、彼らが懸命に家族全員で帰国してくれたからこそ我々一族の現在があるわけだ。思えば祖父は満州時代の話をするのが割と好きで、決して「タブー」の話題ではなかったが(おかげでbroadmindもボストンよりまだまだ寒いところが地球上にはあると聞いて知っているので助かっているわけだw)、それでも引き揚げの話はあまり聞いたことがなかった。しかし、broadmindの小さい頃はまだ中国残留孤児の訪日調査が盛んだった時代で、それぞれの残留孤児の情報―名前もわかっていて、すぐにでも身元が判明するだろうというものから「○○で親と生き別れになった」くらいの断片的な情報しかなくてそれはいくらなんでも無理だろうと感じるものもあった―を淡々と流すNHKの番組を見ながら子供心に「一つ間違えば父もこの中にいたかもしれなかったのか」と思うととても哀しい気持ちになったのを覚えている。人の親になった今、子供を残していった人達の無念と、再会を果たせた人達の喜びは以前よりも想像できるようになった。話は逸れるが、下手な反戦ドラマやら歴史教科書なんかよりも、こうした残留孤児の番組や毎年8月に放送されていた戦争体験を語る番組とかの方がよほどbroadmindの戦争観を強く形成したといえる。そういう「生きた教材」が減ってきて、若い世代と歴史認識にギャップが生じるのは致し方のないことかと思う。
話を戻すと、思うに父が満州から帰国したのも多分生後3ヶ月くらいだったのではないだろうか。それを考えると、びーちりぞーとに行くために同じ3ヶ月の赤ん坊を直行便の飛行機に乗せて、なんて我ながら呑気なもんだ、と涙が出て来た。先人達の苦労があるから自分はこんないい思いができるのだ。感謝の気持ちを忘れないようにと思っても、ついつい自分の得られる享楽は当然のように思いがちだ。こういう瞬間は大事にしたい。
それにしても、broadmindの産まれた1976年と娘の産まれた2006年での30年間でも、それなりに世の中は変わっただろうが、しかし、同じ30年でも、父の産まれた1946年と自分の産まれた1976年の違いと比較すると天と地ほどの差があると思う。76年には日本の繁栄は確立していてそれは現在まで変わっていない。バブル崩壊とか失われた10年とか、大局的に見ればバカバカしい程度の停滞でしかない。対して、46年と76年は全く違う。全ては平和と高度成長のなせる業だ。喜実子がこれから育っていく世の中も、自分が働いて老いていく世の中もこのまま平和と繁栄に彩られていて欲しい。
自分が開発を志したそもそもの動機もそういうことだった。先のことは誰にもわからない。ひょっとしたら明日死ぬのかもしれない。しかし確実にはわからなくとも、「明日死ぬかもしれない」確率は多くの日本人にとってはほとんど無視しうるレベルである。同様に、自分の明日の命が、衣食住がどうかなってしまうことが世界中の人達にとって「ほとんど無視しうる偶然」になって欲しい。そう思ったのだった。いくら青臭くても、あまり青臭くない年齢に突入しつつある現在だからこそ、原点を大事にしたい。