平野啓一郎へ

「葬送」の読後感としては、俺はこれでいいと思う。このまま行け、平野。というのがbroadmindの思うところなのであるが、どうもそうはなってないようである。
「滴り落ちる〜」は未読だが、どうも食指が動かない。日蝕→一月物語→葬送と来て、高瀬川みたいなのを一冊世に問うのはいいと思うが、なぜもう一冊実験的短編集を重ねる必要があるのか?変な短編集で遊んでないで、この「葬送」みたいなのをまた書きなさい。しんどいとは思うけど、使い古しの実験的作品では「次」にいつまで経っても行けない。
文壇の平野然り、論壇の小熊英二然り、「これだけ勉強してんだから文壇に/論壇に迎え入れてよ」式の作品は三十代半ばまでには止めるべきだ(小熊の場合やや手遅れ感があるが)。平野の作品は時代性が欠如しているとよく評されるようだが(表層的なテーマの時代性自体ははっきり言ってどうでもいいが)、時代性を云々するのであれば、平野や小熊のように才能のある人間が意識的か無意識にか、「勉強してんだから認めろ」的な行為に走ってしまうということそのものが時代の病理であろう。もっと本当の意味で自分に自信を持って欲しい。作中のドラクロワではないが、芸術家といえども世間に価値を認めさせなければ意味がない。そりゃそうだ。しかし、「高瀬川」におけるお前のインタビューは気になる。「欧州の中世や人間の死について哲学的な視点から取り組んできた作家が、こんな作品も書くんだ、書けるんだということを示したかったのです。」と言うが、はっきり言ってこういうやり方で権威の承認を得ようとすることは不毛だ。権威以外の一般読者の承認を得ようとすることはもっと不毛だ。ドラクロワのように自分が「これ」と思う作品を問い続けるしかない。それしか、ない。
あえて時代性の話を逆向きに持ち出すと、「日蝕」はbroadmindにとっては「自分の世代にもこういう作品を書ける奴がいるんだ!」という意味で感動だった。本当にビックリした。99年当時の自分にどれだけのエネルギーを与えてくれたかは計り知れない。だが、それで終わりだったら許さない。お前が三十代になってもっともっと遠くに行ってるところを見せてくれないと、俺も安心して三十代を迎えられないんだ。
あと、日蝕のときは文体の難解さから大江の名を持ち出す人間が散見された。その後は、三島の再来とかいう声もあった。いずれにせよ下らない。現時点で平野がこれらのビッグネームに互するだけの結果を残しているとは到底思わないが、少なくとも大江も三島も嫌いな一平野ファンとしては、「○○の再来」式の議論の本質的な不毛さとは別に、そもそも目指している地点がいずれともかなり違うと信じている。
頭上の天井の空白を埋める絵を思い描くドラクロワの如く、再び壮大で偉大な主題を見出されんことを。