2005年総括

時差の関係でまだ2005年12月31日のこちらボストン。「総括」という言葉は一見建設的で前向きのようでいて、これまでの行いや出来事を後付けの論理で強引に括って、場合によってはなかったことにしちゃおうというような暗くて身勝手なイメージも伴う。そんな陰鬱なイメージがあるのも、総括の名の下にこれまでの行いどころか仲間までなかったことにしてしまった連合赤軍幹部の皆々様のお陰であろう。一般名詞の特殊な用法、というのがまたミソで、今どき「ポア」なんて言っても失笑を買うだけだが、「総括」というと現在に至るまで連合赤軍的な用法でも何となく使えてしまうというのがこれまた凄いところだ(そう思っているのは社会の中で極めて限られた人間だけかもしれないが)。ということで05年も総括総括。

まず今年の1月1日を思い出してみると、元日から大学に行ってLSEの願書を書いていたのであった。なぜこんな悲惨な正月だったのか?それは年末に何年かぶりにインフルエンザにかかって出願のスケジュールが大幅に狂ってしまったためであった。ロクに体温も計っていなかったのだが、「そろそろ熱下がったっぽいな〜」という気がした段階で計ってみたところまだ38度以上あったので、あれは久々にK点越えしていた可能性が高い。ともあれ、元日の大学は誰もいなくてマジ怖かった。すごい暗くて静かなのに、たまに遠くでドアの閉まる音とか足音とかが聞こえてお化け屋敷状態。それにしても結局ハーバードしか受からなかったので、あの年末年始は無駄な時間とカネを費やしたものである(・・・と書いてみてから、推薦状を書いて下さった方もこれを読んでいる可能性があることに気が付いた。私の力不足でえらいお手数おかけしてホントすいませんでした)。

そうそう、つまり、今年の1月1日にはまだ何も決まってなかったわけだ。どこに留学するかも決まってなかったし、妻にプロポーズはしたものの、式場も日取りも決まってなかった。そう考えると凄い一年であったことは間違いない。何せ、東京どころか豊島区北大塚から住民票を20年以上移していなかった人間である。引っ越すというだけでも大ごとなのに、独立、結婚、退職、留学・・・。台所でおせちを作る妻を見ながらこうしてボストンで一年の総括を書いているということ自体、想像だにしなかった。よくまああのスケジュールで結婚式とパーティーができたものだと思う。もちろん、その全ては家族の支えと友人諸兄姉の助けのおかげで、これ以上周囲の人々の大切さというのを実感した年もなかった。

人生に関して言うと、大きな一歩を踏み出したようでいて、実はあまり本質的に解決していない。29歳モラトリアム。どうすんだこれから?社会復帰するのか?腹を決めて博士を目指すのか?昨日もモルガンの同期で同じく会社辞めてこちらに留学しているS氏と飲んでいたところ、「broadmindの一番ダメなところは優柔不断なところだ」と喝破された。そんなことわかってるみょ〜ん。でも、もう30近くなるとこうやってあれやこれや考えて決められないという性格も直らない(これでも10年くらい前に比べると随分と行動力が付いたと思う)。よって、なるようになる、なるようにしかならない、選ぶ幸福のあるときは悩み、そうでなければ受け入れてくれるところで働く、そういう人生もありかなぁ、と。もちろん、それなりの贅沢は言いたいわけではあるが。

しかし、こんな幸せな一年もなかった。みんなが祝ってくれて、みんなが手伝ってくれて結婚して渡米して、留学生活もとても充実してるし、こちらでの新婚生活もとても楽しく過ごしている。やっぱり良い意味で節目の年、生涯忘れない重要な区切りの一年になったと思う。この充実感と幸福が続くように努力しなければ。

世の中一般で言っても、時代の区切りとなった一年だったような気がする。小泉自民党の総選挙での圧勝劇。それと前後して旧き良き自民党ご意見番的存在であった後藤田正晴氏が亡くなった。ビジネス界でも昨年に続いてホリエモン村上ファンドといった新自由主義経済の申し子達が活躍し、戦後高度成長を支えた金融人の代名詞とも言える中山素平氏が亡くなった。競馬でも、11年ぶりの三冠馬が誕生。サンデーサイレンス産駒最後の世代でもあり、来年以降また競馬の質が変わっていくことはほぼ確実だろう。F1でも王者シューマッハが(というよりフェラーリが)不振にあえいだ一方で、アロンソという若きチャンピオンが誕生した。

来年も良い一年でありますように。日本がこれ以上ひどいことになりませんように。