リバタリアンの味方をしたくなるニュース

今年のテーマの一つは「リバタリアニズムとの距離感を自分の中で整理する」ということにしようと思う。
成長への信仰が揺らぎ、経済自由主義への批判が強まる中で、単なる論壇的「トレンド」に押し流されることなく、しかし新たな社会経済的状況を踏まえながら「善き社会」の構想を深めていく上ではリバタリアニズムの慎重な批判的検討が不可避でしょう。
しかしとりあえず今日は逆に、リバタリアンマンセーしたくなるニュースを複数見かけたのでそっち側から。


まず一つ目。

 漫画家の楳図かずおさんが東京都武蔵野市に建てた赤白ストライプの外壁の住宅をめぐり、周辺住民2人が「閑静な住宅街の景観を壊している」として外壁の撤去などを求めた訴訟の判決で、東京地裁(畠山稔裁判長)は28日、「景観の調和を乱すとはいえない」として住民側の請求を棄却した。

 楳図さん宅は2階建てで、2007年に着工し08年3月に完成。外壁は幅約48センチの赤白ストライプ模様で、一部を緑色に塗装し、屋根には赤色の円筒が建てられている。
「赤白の景観、調和乱さず」 東京地裁、楳図さん邸に無罪(NIKKEI NET 1月29日)

正直、「こんなことで裁判起こしてんじゃねーよヴォケが」と思う。勝手に自宅の外壁を塗られたならともかく(笑)、楳図が自分の家をどう塗ろうとまさしく自由じゃんね。都市計画法建築基準法での規制に全て反対かというと、他人の建造物の存在による実害というのもそれなりには想定できるように思うので、リバタリアンと衝突する場面が出てくるかもしれない*1。しかし、景観自体にはどこをどうひっくり返しても個人の財産権に優先するような本質的な価値はないだろと。景観研究室出身の友人や知り合いも多いのであまり言いたかないが、「景観」という概念に固執する人というのはどうにも根本的なところで理解できない気がする。まあ、景観が専門でも、必ずしも社会工学的な発想を持っている人ばかりではないので、景観自体は興味深い研究対象だということはわかりますが。


次。

【ワシントン=勝田敏彦】米ニューヨーク州に住む外科医が、離婚した看護師の妻を相手取り、提供した腎臓の代金として150万ドル(約1億3千万円)を請求する訴訟を地元の裁判所に起こした。生体臓器移植をすることで、提供者と移植患者の人間関係が複雑化するとの心配が指摘されてきたが、それが表面化した形だ。

 米メディアによると、この外科医はリチャード・バチスタ博士。01年、腎臓病で両方の腎臓が機能しない妻ダウネルさんに、移植手術で片方の腎臓を提供した。しかし夫妻は05年に離婚。2人の間には3人の子どもがいるが、引き取ったダウネルさんが博士に会わせることを拒んでいるという。米国の医療関係者からは「臓器は売買できず、金銭などにかえることはできない」と、この提訴に批判の声が上がっている。

 博士はCNNテレビに出演し、「私が本当に望んでいることは3人の子どもを取り戻すことだ」と話した。

 また、臓器不足で移植を受けられないまま亡くなる患者が多いことにも触れ、今回の裁判で、臓器提供についての理解が進むことを望むとした。司会者から「(あなたの死後)もう片方の腎臓を提供する機会があれば、どうするか」と問われると「喜んで提供する」とも語った。
別れた元妻に「提供した腎臓の代金」請求 米で裁判(asahi.com 1月28日)

リバタリアニズムに対するよくある「批判」の中で理解できないものの一つが臓器売買批判。脳死移植とか移植後のリスクとか意志の確認とか、各論としては色々あると思うが、基本的にはいずれも技術的問題に帰着する話であって、原理的に臓器売買自体の何がいけないのかよくわからない。「米国の医療関係者からは『臓器は売買できず、金銭などにかえることはできない』と、この提訴に批判の声が上がっている。」って、お前らが勝手にそう決めてるだけだろと(笑)
フィリピンみたいなところでは、何もわかってない田舎の連中が臓器売って「手軽でデカい現金収入」としてブームになっちゃったりするのは確かに問題なんだけど、それって「情報へのアクセス」の問題であって、臓器売買の原理的な問題なのかどうかわからない。まあ、いきなり今すぐ世界中で臓器売買を自由化するとかなったらそれは大変なことになるんだろうが(←但しここは自分なりのリバタリアニズム批判で重要なポイント)。
仮に臓器市場みたいなものが成立したとしても、親族同士で臓器を融通しあったり、善意で提供する人が、例えば貧しい患者に無償で提供するのを妨げるものではない(臓器に限らず、個人の財産を寄付することなんか誰も禁じていない)。一方で、高くてもいいから臓器を買いたい、という人と、そういう人に有償で臓器を売りたい、という人との間で勝手に取引が成立するのを妨げる理由は何もない気がする。
例えば、ダイヤモンドや象牙だって地下市場はあるけど、「出所のわからないブツは取引しない」という意識が社会に浸透していけば、そうした市場は無くならないにせよ確実に縮小はしていく。同様に、強制的にあるいは騙して臓器を提供させるような取引も、出所を明確にするシステムとまともな取引市場ができれば減ると思うけどね。それに、カネ出せば買えるということになれば、金持ちや政治家が生きたいがために無理筋なことをして誰かから強制的に臓器を奪う、なんていうリスク(というかインセンティヴ)もむしろ減るわけだしね。臓器市場バンザイ。
で、記事に戻ると、これは臓器売買自体の話じゃないけど、提供した臓器が財産分与の対象になるかってのは面白い頭の体操じゃないすかね。この裁判はちょっと無理筋なように思いますが。


ということで、とりあえず今日はリバタリアニズムマンセーしてみた。逆にどんなところが不満なのかについては今度書く。

*1:例えば、「構造なんて脆弱でいいから、すっげー高い建物を建ててみたい」という奴が自分の土地にヒョロヒョロの構造物を建てるのに対し、周りの住民が「地震が来たらウチにも被害が及ぶだろ!」と訴えるのは妥当なように思われる