東京

これまでにも何度か一時帰国はしてきたのだが、慌ただしい日程のことが多く、東京という街をゆっくり見る機会は渡米以降なかった。今回、ややゆとりを持って電車に乗り、街を歩いて感じるのは、周りの光景や人々の「他人事感」とでも言えばいいのか、二年を経て東京が「自分の街」ではなくなったことをあらためて実感する。これまでも、例えば街で目にする特定の個人個人を冷ややかに観察することはいくらもあったわけだが、街全体を、集合としての周りの人間を「生暖かく眺める」というのはこれまでになかったことだ。
といって、無論自分がアメリカ人、ケンブリッジ人になったというのでもない。今の自分は何人でもないし、この街において何者でもない。しかしディアスポラ化したというのともちょっと違うと思う。元々東京生まれ東京育ちの自分にとって実体のある「根」のようなものはなく、自分が「何者でもない」という感覚自体、自分が「東京人である」という自意識の一部ですらあった。それでもかつては東京という街には一定の「当事者性」を自分なりに感じていたところ―それは流行やビジネスと関係のない次元で自分が東京という街をその辺の人間よりも深く「理解」している、という傲慢な矜持と言い換えてもいいのだが―東京以外に住んだ経験によって匿名の都市生活者としての自分がより徹底され、「東京」という存在へのこだわりも希薄になってきたということなのだと思う。いや、それともむしろ逆に、こだわっているからこそこの街が自分のものでなくなったことを感じて必要以上に冷ややかになっているのだろうか。
いずれにしても、かつてほど東京に対して情緒的な、無償の愛情を覚えることができないのは哀しいことではあるが、それもまた28年を東京で暮らした自分が強すぎる郷愁を抱えずに異国で暮らすための無意識の知恵というものなのだろう。いずれまたこの街に定住するその日まで、僕はこの街と人々とに冷ややかな視線を浴びせつつ、恐らくは静かに愛し続ける。(元)東京人は自分でも呆れるくらい傲慢なのだ。