みっちゃん

(長文の上辛気くさいので、30男の女々しい(politically incorrect word)モノローグに興味のない方はご遠慮下さい)

ついにこの日が来てしまった。
いずれ来るということは当たり前のこととして分かっていたし、もうそう遠くないだろうという知らせも受け取っていたので覚悟はできていたつもりだったが、そしてメールの件名を見たときにその知らせだということもすぐにわかったが、いざそのメールを開封して読んでみるとやはり涙があふれてきた。

彼女が我が家にやってきたのは1984年の夏だった。母猫がどうしたことか母の実家の屋根裏で仔猫を産み、屋根裏から一部の仔猫が転落してきたのだ。元々動物好きでずっと犬や猫を飼ってきた祖母なので、早速仔猫たちを救出してあげた。母猫は野良だったが人間を寄せ付けないというわけではなく、納屋に保護されていた仔猫たちの世話をしばらくはしていたのだが、そのうちプイと育児放棄して姿を消してしまった。そんなわけで、その中の一匹であった彼女、みっちゃんは我が家に来ることになったのだった。84年というと、ドラゴンボールの連載が始まった年であり、山岡士郎はまだチンピラみたいな顔をしていた。爾来ずっと、みっちゃんは僕ら家族とともにあった。

我が家にやってきたときは両手におさまるくらいだった仔猫はすぐに大きくなり、狭い我が家のベッドやソファーを悠然と占領する存在となった。いかにも猫らしい、自己中心的で性格の悪い猫で、若い頃はお腹が空いたのでもない限りこっちがいくら声をかけてもうんともすんとも言わずに無視していたし、歳を取って「人間を使う」ことを覚えてからは、やれ寝床が準備されていないだの、トイレが汚いだの、あれやこれやの用事で人を呼び付けていた。でも、そんな彼女と時間を共にするうちに、最初猫を飼うのに消極的だった父はいつの間にか猫派になり、84年当時はまだ1歳だった弟なんかは本当の兄妹みたいに可愛がっていた。そして一番世話をしていたのは母だった。だから自分も可愛がっていたつもりだったけど、家族の中では一番存在感が薄かったかもしれない。

今思い出そうとすると、珍しく可愛らしくしていたのに虫の居所が悪くて邪険に扱ってしまったこととか、幸せそうに寝ているのを邪魔したこととか、最初に思い浮かぶのはそんなことばっかりだ。でも同時に、寒い夜に布団の中に潜り込んで僕の脇に首を乗せて寝ていたこととか、首を掻くときに聞こえてきた鈴の音とか、すっかり野生を失ってフローリングの床をカツカツと爪の音を立てながら歩いていたこととか、ノドを鳴らしながら丸くなって寝ていたこととか、母猫のことを思い出していたのだろう、毛足の長い敷物に顔を突っ込んでおっぱいを吸うような仕草を見せていたこととか、色々な情景が甦ってくる。

大した病気をすることもなく長生きしてくれたみっちゃんだったけど、歳を取るにつれ体のサイズはまた小さくなっていき、最期はまた仔猫のような大きさになって、家族に看取られながら昨日、とうとう天に召された。僕がその場にいられなかったことは残念で悲しくはあるけれど、留学に出発するとき、すでに20歳だったみっちゃんを見られるのはこれで最後かもと覚悟していたので、その後三回の一時帰国で再会できたことにはほとんど無宗教の自分でも、神様にかみっちゃんの生命力にか何だかよくわからないけど、感謝している。でも、ひょっとしたら四回目もあるのか、あるいは僕の留学が終わるのまで待っていてくれるのかと思ったけど、それは無理だった。その代わり寝たきりになってしまったと聞いて、三日前に実家に電話をかけて、最後に受話器から声をかけることができた。

所詮は僕ら人間のエゴだということは、よくわかっている。ひょっとしたら彼女は厳しくても自然の中でのびのびと暮らしたかったのかもしれないけど、狭いマンションに連れて来て閉じこめて、去勢して自分達の都合のいいように可愛がってきたわけだ。だからみっちゃんが幸せだったのかどうかは、よくわからない。でも、彼女が僕ら家族に22年8ヶ月という永い間、どれだけの喜びと、安らぎと、笑いと、そして最後にそれに比例する悲しみをもたらしてくれたかということは、とても言葉で説明できるものではない。最後に声をかけるとき、何を言おうか、もう長くはないのだろうけど、本人(猫)はまだ生きる気かもしれないのに「さよなら」も変だな、と思っていたところ、「ギルバート・グレイプ」のクライマックスでレオナルド・ディカプリオ演じる知的障害者の弟がジョニー・デップ演じる主人公の兄に言った「Say "Thank you" Gilbert, say "Thank you"」という台詞が頭に浮かんだ。猫の気持ちはわからないからこそ、勝手な人間たる自分の気持ちとして「ありがとう」と素直に声をかけることができたと思う。(映画では、この後ジュリエット・ルイスと抱き合いながら「Thank you」と声をかける感動的なシーンが展開されるのであるが)

母猫が何を思ってあの家の屋根裏に入って仔猫を産んだのか、四匹いた仔猫の中からなぜみっちゃんを選ぶことになったのか、恐らく何という意味もない、単なる偶然なのだろう。だけど、例えば父と母が出会って自分が産まれたことにも、自分と妻が出会って娘が産まれたことにも同じようにちょっとした偶然が作用していて、良くも悪くもそうやって僕らの人生は成り立っているわけで、不思議な縁で我が家にやってくることになったみっちゃんと20年以上の時間を共有できたこともまた、自分の人生のとても重要な一部分となった。でもそれを情操教育とか人格形成とか呼ぶには、22年はちょっと長すぎたね。

自分のPCの壁紙はみっちゃんの写真で、去年の秋に娘が産まれたときに娘の写真に差し替えようかと思ったのだけど、その直後にみっちゃんに何かあったりしたら一生後悔しそうな気がしたので、今日までそのままにしてあった。でも明日には壁紙を娘の写真に替えようと思う。あの頃は小学二年生だった僕も今はもう30歳になって妻も子供もいて、あんまりめそめそしてると呆れられちゃうからね。きっとみっちゃんもあの「バカだなぁ」という視線でどこかから見てるんだろうしね。