2006年9月30日

2006年9月30日、僕は君の父親になった。
君が妻の体に宿ったことがわかって以来、君がお腹の中で育っていく様子を見るにつけ、僕は「親というものが何なのか、子供を持つということがどういうことなのか自分はこれまで全然わかっていなかった。今ようやくわかった」と思い続けてきた。
でもこれは嘘っぱちだったので撤回する。8ヶ月前に妊娠がわかったときも、いやそれどころか昨日の自分ですら、まだ何もわかっていなかった。妻がついに君を産んでまだ血まみれの君をその胸に抱いたとき、そして僕がその側で産声を聞きながら君と妻とをつないでいたへその緒を切ったとき、僕の目からは自然と涙が溢れてきた。何だかわからない、涙。でもこれ以上なく、わかった。というよりも「わからさせられた」。本当に生きていて良かった。というよりも、死んでもいいとすら思った。
もちろん、今死んだら妻も君も困るだろうから、まだまだ死にはしない。でもそういう社会的、経済的な話ではなくて、もっと根源的なもの、つまり自分が人間として、動物として、生き物として、産まれた意味、生きている意味や使命といったものの一つを達成し、同時に費消したという感覚。これを教えられた気がする。
全ての人間がこのようなプロセスを経て誕生しているのかと思うと、窓からボストンの街並みを眺めながら、こうした営みを何百世代何千世代と重ねて我々に繁栄をもたらしてきてくれた自分の祖先、そして人類全体に対して感謝と畏敬の念を覚えずにはいられなかった。自分が「生かされている」ということ。宗教を別とすれば、我が子の誕生以外にこのことを真に実感し理解する他の方法が果たしてあるのだろうか?
いつか君は自分の意志と力でその翼を広げ、僕らを残して二十二世紀へと向けて羽ばたいていく。言うまでもなく君の人生は君自身のものだし、僕らはその時に一緒に付いていくことはできない。だけれども、同時に君は、僕と妻の遺伝子をも二十二世紀へと運んでいってくれる。君が元気に生きていってくれるということ自体が、同時に僕らが生きた証でもある。だから今日、僕は死ぬ準備が一つできたと、本当にそう思うのだ。そして同時に、君のためにしっかり生きなければと。
無事に産まれてきてくれて、ありがとう。そして、自分に生きることの意味を教えてくれて、ありがとう。君の人生が少しでも良きもの、有意義なものとなるよう、無力な父親ではありますが恩返ししていきたいと思います。